坂の上の雲 日本陸軍、12月4日大連旅順攻略。酷寒の大連より。日露戦争顛末記、大連旅順と日本との深い関係、乃木将軍、東郷平八郎、夏目漱石、正岡子規、岸信介、愛新覚羅溥傑、伊藤博文、明治の偉人たち


大連旅順、日露戦争について考察。

明治維新後、欧米列強諸国の脅威に対して急速に近代化を進めていた頃のこと、1890年代から朝鮮半島中国満州への侵略政策を企てる日本と、極東アジアへの領土拡大を狙うロシアが衝突する戦争。

中国清王朝が弱体していた頃のこと、当時、中国遼東半島の先端にある旅順港は、ロシア軍の重要な軍港であった。
ロシア軍は、この大連旅順港を囲む戦略上重要な山々の山頂に、強固なコンクリート要塞を築いて、ロシア海軍の艦船を護った。

日本軍はこの旅順港要塞を海上と陸上より攻めた。1904年2月旅順港攻撃から始まった1905年までの戦いを日露戦争と言う。

当時、日本政府は、1894年の日清戦争勝利以来、国家予算の大半を軍事に充て、欧米列強の植民地政策に習い着実に軍事力を増強していった。


この日露戦争で有名な人は、連合艦隊司令長官東郷平八郎、旅順要塞攻略陸軍司令官の乃木希典である。

1904年2月8日、日本海軍の奇襲により、旅順港内のロシア艦艇を攻撃、開戦となる。同日、陸軍も朝鮮半島に上陸制圧、朝鮮を日本同化型植民地へと押し進めて行く。

東郷平八郎の参謀秋山真之は、旅順港内に立て篭もる旅順ロシア艦艇の封鎖を目的とした、老朽船を港口内に沈没させる作戦を3回に亘り敢行した、その時の作戦任務に当たり戦死した広瀬武夫中佐の伝説は有名。

1904年5月、大連に上陸した日本軍は、同月25日、現在の大連金州区にあった南山要塞を攻略し、旅順港のロシア駐屯軍を満州ロシア軍本隊から切り離す。

1904年8月19日から、乃木稀典、陸軍司令官は3回の総攻撃を含め、1905年1月1日まで155日間、陸上より旅順の各要塞を攻めた。

日本陸軍が最大の被害を出した旅順203高地要塞攻撃は、極寒の地、旅順の苛酷な条件の中、11月26日より12月4日まで続き、日本軍は5000人の戦死者と1万人の負傷者を出して攻略。兵士の中には当時の国民病、栄養不足による脚気で死ぬものや動けない者が多かった。

この203高地の戦いを最後に、ロシア軍旅順司令官ステッセルは日本軍参謀の謀略により戦意を失し独断で降伏、旅順の戦は終結する。

旅順要塞攻防の総死傷者は、日本軍6万1400人(脚気死を含む)、ロシア軍3万人。

陸上での日露最終戦は1905年2月20日から3月10日にかけて旧満州奉天(現、瀋陽)にて満州軍総司令長官、大山巌西郷隆盛の従弟)の指揮により、参謀長、児玉源太郎の手腕を発揮させ、日本軍25万人の兵力で、
ロシア軍35万人を奉天城に包囲攻撃、ロシア軍26万人は包囲の手薄な北方から敗走、日本軍の勝利となる。

死傷者、日本軍7万人、ロシア軍9万人。少兵力で大兵力を包囲しぎりぎりのところでからくも勝利したこの戦いは、戦史上有名である。

日本の運命はこの一戦にあった、決死の覚悟であったことが伺える。優秀な統率力と戦略は信長の桶狭間の戦に似ている。

これにて、日本陸軍は益々付け上がり国家方針への発言力を増し、身の程をわきまえなくなって行く。

一方の海軍は、1905年5月27日、連合艦隊司令長官東郷平八郎は、当時、世界最強と言われたヨーロツパ方面の主力艦隊であったロシアバルチック艦隊対馬海峡で発見、秋山真之参謀の周到な訓練と作戦により、そのバルチック艦隊のほとんどを撃沈した。

そのバルチック艦隊は7ヶ月をかけヨーロッパより日本海へ遠征、当時、史上最長の遠征後の旅行気分であった為か否か、日本連合艦隊に、こっぴどく、完膚無きまで、殲滅させられた。小国日本連合艦隊の大勝利であった、とともに大帝政ロシアの皇帝は肝を潰したであろう。

死傷者はロシア海軍1万人、日本海軍1000人。

この海戦により、ロシア海軍は海軍力を失い、日露戦争での日本勝利の要因となり、日露戦争終結におけるポーツマス講和条約を有利にすすめ、樺太の半分を日本領土としたが賠償金の支払はなく、日本国民は不満であった。


日露戦争勝利によって満たされぬ不満を、日本陸軍はさらに拡大させ、中国大連より東北一帯の満州の占領を進め、1945年日本軍敗戦まで植民地として統治していく。

夏目漱石は大連旅順の老鉄山温泉に入った、小説で紹介している。

伊藤博文は日露協商交渉の帰路、満州ハルビン安重根に暗殺される。安重根は大連旅順監獄で亡。

正岡子規は新聞記者時代に従軍記者で大連金州地区を取材した、金州には子規記念碑がある。

愛新覚羅溥儀清朝最後の皇帝、傀儡満州国皇帝。大連賓館、旅順大和ホテルに宿泊している。

*農商務官僚岸信介満州南鉄道経営に乗じ満州の(東条内閣の商工大臣、自由民主党総裁、60年安保条約改定でアメリカの傘を明文化、自民党の右派、後継者は福田赳夫)軍事化を担う。満鉄は半官半民の国策会社で中国侵略の諜報機関として情報収集に当たる。
安部晋三の母の父は岸信介(ノブスケ)信介の弟は佐藤栄作

余談、日露戦争から日本敗戦後の政治混迷回顧

自由民主党1955年発足→56年鳩山一郎が初代総裁(日ソ共同宣言、歯舞諸島色丹島返還交渉)→56年石橋湛山(病気退任)
→57年岸信介(60年安保改正)
→60年池田勇人(所得倍増政策、64年経済協力開発機構OECD加盟、政府開発援助ODA、貿易の拡大)
→64年佐藤栄作(72年沖縄返還

→72年田中角栄(72年日中国交正常化条約締結、日中平和友好条約締結、台湾は中
国の領土と認定、ロッキード事件
→74年三木武夫(政治浄化を推進したが反対派により三木降ろしされる)
→76年福田赳夫佐藤栄作の後継者、角福戦争ダッカ事件
→78年大平正芳(寛容と忍耐、日中共同声明起案)→80年鈴木善幸岩手県選出)

→82年中曽根康弘(ロン、やす日米盟友関係、国鉄電電公社日本専売公社民営化)
→87年竹下登田中角栄派を分裂させ経世会結成、消費税導入、リクルート事件東京佐川急便事件)
→89年宇野宗佑(蜂の一刺し、エロ首相、69日超短命内閣)
→90年海部俊樹(大学入試制度改革共通一次試験導入、小沢一郎自民党離党し新進党党首、新党ブーム)
→91年宮沢喜一(池田内閣のブレーン、平和維持活動PKO協力法成立、国際派、内閣不信任案可決後1993年7月解散総選挙自民党単独過半数割れ惨敗、新党グループと社会、民社、公明の連立政権誕生、小沢一郎暗躍)

→93年、河野洋平は保守2大政党論提唱者、自民党を脱党後新自由クラブ結成資金難で自民党復帰、宮沢喜一総裁辞任後93年8月河野洋平総裁誕生、自民党55年体制崩壊、
93年多党派連立政権日本新党代表細川連立内閣誕生、熊本県知事、日本新党結成、自民党の一党支配に幕、反自民7党連立、米の関税貿易一部開放続いて94年連立内閣新生党代表羽田孜内閣誕生史上2番目の短命内閣、小沢一郎暗躍
94年村山富市社会党の基本政策転換、非武装中立政策放棄自衛隊容認、君が代日の丸容認、村山談話戦後保障問題)3党連立内閣、自民、社会、新党さきがけ自民党政権復活、河野洋平が副総理

→96年橋本龍太郎内閣(96年社会党と連立政権後、同年解散、小選挙区比例代表並立制初選挙で過半数獲得単独政権発足、普天間飛行場返還日米合意)
→98年小渕恵三内閣(内閣支持率史上最低、官房長官時代平成の元号発表、沖縄サミット開催、安室奈美恵熱唱、99年より小沢一郎自由党公明党と連立、野中広務官房長官

→00年森善朗(問題発言連発、原子力潜水艦えひめ丸衝突、支持率最低で辞任、公明党扇千景参議院議長の保守党と連立、野中広務幹事長)
→01年小泉純一郎北朝鮮電撃訪問、郵政民営化靖国神社公式参拝造反議員潰し自民党ぶっ壊す)
→06年安部晋三(発足早々中国訪問関係改善、戦略的互恵関係包括推進、年金記録不備問題、教育基本法改正、憲法改正論者、胃痙攣で国会会期中突如辞任、母の父は岸信介
→07年福田康夫(憲政史上初親子2代首相、後期高齢者医療制度移行、森内閣小泉内閣官房長官で実力発揮、国民年金未納問題、ねじれ国会等で突如辞任)
→08年麻生太郎内閣(母の父は吉田茂、妻の父は鈴木善幸、妹は大正天皇の孫三笠宮寛仁、ともひと親王、ひげの殿下、ゴルゴ13漫画愛読者、漢字未熟読者)以後野党転落、
谷垣禎一(たにがきさだかず)新自民党総裁誕生野党時代へ

自由党小沢一郎民主党に合併、09年9月民主党政権獲得へ鳩山由紀夫菅直人野田佳彦内閣へ

→現在2012年末自民党安部晋三内閣誕生、デフレ脱却、憲法96条、9条、憲法改正に意欲、

小沢一郎の暗躍で、細川連立内閣誕生(竹下派であった小沢は竹下派を分裂させ自民党と喧嘩別れし新生党を結成、反自民を結集させ熊本藩主第18代当主、細川護煕を首相に擁立)

自民党竹下派代表の小沢一郎竹下派を分裂させ93年新生党結成(羽田孜党首)94年新進党結成(海部俊樹党首)98年自由党結成自身が党首、99年自民党と連立政権参加、00年離脱。03年民主党自由党合併、政権奪取後政党の献金窓口幹事長となる。国民の生活が第一未来の党→現在は生活の党結成。政党結成、解党を繰り返し党献金窓口幹事長となり政党献金や政党補助金を貯め込み私腹を肥やした。政治資金規正法は00年から政治家個人の政治団体への献金を禁止した、この規正法の政治資金収支報告書記載義務虚偽の嫌疑で国民より起訴された。権力に固執し日本のビジョンを語らず金は力なりを実践した稀有な厚顔無恥の政治家である。

村山富市を首相とする、自民、社会党新党さきがけ武村正義鳩山由紀夫等自民離脱組や菅直人)連立内閣誕生で自民党は政権復活

細川護煕(ほそかわもりひろ)母の父は近衛文麿

野中広務幹事長、03年毒まんじゅう発言(賄賂授受のこと)03年麻生太郎発言(野中の様な部落出身者を日本の総理にできないわな発言)野中広務の天敵、小沢一郎、小沢を悪魔と言う。